2017年3月13日月曜日

Something scared the living daylights out of me

はじめまして。Ramblerです。

今回からこちらのBlogを新しく始めさせて頂きました。上記のとおり、超個人的な文章を書いていくつもりですので、お暇な方だけお付き合い頂けたら幸いです。

冬は晴れている日こそが寒いToronto。みなさんはいかがお過ごしでしょうか? 天気が良いからといって薄着で出かけると酷い目にあいます。




「しんゆう」――この言葉の響きを聞いた時、あなたはどういった漢字をあてるだろうか。おそらく「親友」を思い浮かべるのが一般的だろう。しかし、わたしの場合は少しばかり事情が違う。

 親友とは「変化過程の途上にある一時期の状態」を表しているにすぎない。英語でいうところの「Best friend」とは程遠い意味合いを持つ。わたしの定義では「Getting acquainted」が正しい。


















 新友から親友へ、さらにそれは真友へと変化し、最終的には信友へと進化発展を遂げる。漢字の意味がわかる日本人であれば説明の必要はないはずだ。これは言葉遊びなどではない。

 わたしの心の奥底に澱のように沈み、カビのごとく深く根を張ってしまった不動の呪い。いくら底をさらい、どれほど深く掘り返そうとも、それを完全に取り除くことはできない。同時にこれは、他人との信頼関係の構築において、わたしを慎重にさせている核の部分とも言い換えられる。






















 最近わたしが手にした書類に興味深い一文を見つけた。

"As a result of bullying, people can lose their ability to love and trust, 
they may want to be completely alone later in their life"

※一部中略

 意味を解したわたしは、見知らぬ誰かに現在の己を的確に言い当てられたような感覚に衝撃を受けつつも、永いあいだ自分を取り囲んでいた見えない壁が突如として崩壊したような解放感を覚えてもいた。





 残念ながら、それは単なる錯覚であった。わたしは青空を仰いだのではなく、水たまりに映ったそれをただ覗き込んだだけであった。問題は変わらずそこに鎮座しつづけており、諦観という概念が刹那の虚像を結び、わたしに氷解という錯覚を見せたのだ。


















 光と影、真と偽、表と裏などのように、程度の差こそあれ人は誰でも闇の部分を持っているものである。だから、わたしが軽い人間不信であることを否定はしない。

 そんなわたしが抱え込んでいる闇に意外なところから光が射した。それは、とある映画のふざけた主人公が吐いた台詞である。

"The only thing that matters is what you choose to be now"




「柔能く剛を制す」とはよく言ったもので、深刻さを打ち破ることができるのは、対極に位置する案外ふざけた存在なのかもしれない。